■せとものとは
愛知県瀬戸市を中心に作られている陶磁器のことで、「瀬戸物」とも書きます。主成分が一方は粘土のものを陶器(土もの)、陶石のものを磁器(石もの)と呼んでいます。このうち陶器を日本で初めて本格的に焼いたのが瀬戸で、磁器を初めて作ったのが唐津です。陶磁器のことを西日本では「からつもの」といい、東日本では「せともの」といいます。
せとものの一番の特徴は釉薬(ゆうやく・うわぐすり)がかけてあるということです。鎌倉時代に日本で釉薬をかけた焼物を作っていたのは、瀬戸が唯一で、他の地域で作られていた焼物のほとんどは釉薬をかけていないものでした。
釉薬をかけず焼いたものは「素焼き」と呼ばれます。
素焼きは表面が粗く、色柄などを反映するのが難しい上、水を吸収しやすいので用途が限られます。
しかし、素焼きした陶器の表面に釉掛けをして焼くと、表面をガラス質が覆い耐水性が増します。そして、釉薬の中の長石が焼成時に溶け出してガラス質を形成し、金属成分が熱による化学変化を起こすことにより、焼物に独特の色や光沢、模様がつくのです。
■瀬戸焼のはじまり
言い伝えによれば、貞応2年(1223年)に永平寺を創建する僧道元と共に中国の宋へ入り、そこで陶法を修業した陶祖・加藤四郎左右衛門景正が仁治3年(1242年)瀬戸で良土を発見し窯を築いたのが瀬戸焼の始まりとされています。しかし、実際には更に歴史を遡り、平安時代中期、広久手古窯跡群での灰釉による施釉陶器が始まりです。
■瀬戸焼の栄枯盛衰
平安時代から鎌倉時代にかけて日宋貿易が盛んになり、中国より陶磁器が大量にもたらされ、これまでの国産灰釉は下火になっていきました。
この時代にあった手法はいわゆる古瀬戸です。この頃侘び茶が完成し、和物に注目があつまり茶会が盛んに行われたため瀬戸の茶壺・茶入れは茶人の鑑賞に十分耐えうる品格まで磨き上げられました。
戦国時代に入ると美濃などの各地でも瀬戸ものが焼かれるようになり灰釉の他、鉄釉、志野、瀬戸黒などが古窯跡から発見されています。
江戸初期に有田の磁器が急速に台頭し、瀬戸ものは有田に押されるようになりました。。
江戸後期になると九州で磁法を学んできた加藤民吉が瀬戸に戻り磁器生産を本格化しました。そして明治に入り海外にも多く輸出されるようになり、瀬戸の職人の技を活かした素晴らしいノベルティなどが生まれ、戦後には日本経済の復興とともに瀬戸の陶磁器も立ち直り国内外で隆盛を迎えました。
現在では円高や東アジアや美濃など生産地の台頭により、厳しい時代を迎えていますが、その技術は地域の人々によって守られ、受け継がれていっています。